見えない世界
カラダに触れて目には見えないカラダの中の流れやリズムを知覚する。
クラニオってそういうワーク。
手のひらにやってくるもの、体で感じてること、そのときどきで感じることをただ受け取る。
目に見えているその人のカラダ、存在の範囲をはるかに超えるような深さや広さを感じるとき、普段目に見えていることはほんの一部でしかないんだなぁといつも思う。
見えていること、知っていること、
自分の経験の範囲でわかっていると思い込んでいるようなことが多いことに気づかされる。
これはよくて、これはダメ。
これはすごいけど、これはイマイチ。とか。
それはどちらかというと、好きか嫌いか、くらいの自分の好みの範囲でしかなくて、良い・悪い、正しい・正しくない、そもそもそんな評価を測るモノサシを持ち合わせてなどいないのだなぁ、と思う。
何かに反応したくなったとき、なぜその反応が出るのか。
なぜそれが嫌いなのか。
自分に問える、そんなふうにいられたらいいなあ、と思う。
そして、”そうなんだね、嫌いなんだね”って、
こっそり自己共感できたら、誰かを傷つけることもなく、自分を偽ることもなくいられる。
どんなときも好き・嫌いに左右されないところにマインドを置けたらいいのだけど、そうできないときもあるから。
知らないこと、見えていないことがたくさんあること、それぞれが多様で多次元の世界を生きていることをカラダが教えてくれている。
カラダが教えてくれること、きっとまだまだたくさんある。