晴れの日も雨の日も
先週の連休中は、クラニオコースのアシスタントでした。
気づいたら、アシスタントでコースに参加するようになって、3年目になっていました(驚⁉︎)
これほどクラニオな毎日を送ることになるとは、学びはじめた頃は想像もしていなかったけれど、やればやるほど「そりゃ、ハマるでしょ」といまはしみじみと思います。
いまだれかに
「クラニオバイオってどんなボディワークなの?」
って聞かれたら、きっとこうこたえると思う。
「カラダを入り口として、存在のすべてに働きかけるワーク」
です、と。
「存在のすべてに働きかける」という部分は、先輩アシスタントさんの言葉なんだけど、
存在のすべてというのは、骨も膜も液も内臓も神経も、カラダの隅から隅まで、そして心(感情)にも、もっと深いところにあるだろう精神や潜在意識にも、その人の全体を纏っているエネルギーにも。全部まるごと。
セッションでは、私たちの存在を支えている、ライフフォース(=生命エネルギー、プラーナ)に着目しておこなうので、その人の全体が内側から生き生きと輝きだすのをサポートするワーク。という言い方もできます。
ということは、前からわかっていたけれど、それを言葉にしてストレートに表現することに少し躊躇している自分がいました。
自信がなかったんでしょうね・・・
でもやっぱりそうとしか言いようがないよね〜、とくっきりと明確になった気がした今回の4日間でした。
(3年目にしてようやく〜。なんでも時間かかり過ぎる(笑))
ヴェーダの世界では、アートマン(真我)は決して傷つかず、輝き続けると言います。
でも、玉ねぎのように何層も何層もマーヤ(という幻想、経験で得たあれこれ)でヴェールのようにすっぽりと覆われて、その輝きが見えなくなっているそうです。
そのヴェールは、その人にとってのバウンダリーという見方もできると思うんだけど、これまでの自分を支えてきたものでもあるから、それが剥がれていくときというのは、ちょっと苦しかったり、辛かったりして、自分を見失ってしまうかのようなグラグラ感もともなって、自分の弱い部分がバーンとさらけ出されるようでちょっと不安になったりもします。
でも、それがツルンと綺麗にすべり落ちると、新しい景色があらわれて、新しい(忘れていた)カラダの感覚や意識が広がって、「あれ?なんか今までと何かが変わったかも⁉︎」ってなります^ ^
それとともに、自分を守るためにギュと固めていたり、パンパンに張り詰めていた「何か」が緩みだすと、”ゆとり”、”スペース”が生まれて本来の瑞々しさが取り戻され、それまでよりもずっと穏やかで、心の広さを持てたりもします^ ^
でもまたしばらくすると、次のヴェール(バウンダリー)がムクムクと顔を出してきて、時にはそのヴェールは重くて硬くてなかなか剥がれなかったりして(笑)。
それが剥がれるときは、前よりももっと苦しかったりするもので、どんだけ鎧をつけて生きてるのか・・・と途方に暮れてしまいそうになるのだけど、いつの間にかまたツルンと剥がれていく・・
そんなふうに何度も何度も繰り返していくうちに、ほんとうの自分(真我)に出会う。
というのは、ヴェーダの世界のお話で、ヨガや瞑想を通してそこに近づいていくという教えなんだけど、
クラニオをしていると、それは”お話”の世界ではなく、自分の手(カラダも)を通して、ギュギュっと固く張り付いていた何かが剥がれ落ちる瞬間をはっきりと知覚するようなことが度々起こります。(ほんとーに)
ヨガとクラニオ。
私のなかではこんなふうにぴったりと寄り添うようにリンクしています♡
もっとクラニオ的な見方をすると・・・
頭蓋の縫合は大人になると固まって動かないと言われていますが、実際には足元から湧き上がる波のようなリズムとともに、内側から花びらが開くように、膜とともに頭蓋骨の一つひとつが大きく開いていきます。
まさにこの花のよう♡
その内側には、中枢神経系、松果体、視床下部、脳があって、それらも一緒に伸び伸びと楽しそうに呼吸運動しているのを知覚するたびに
晴れの日も、雨の日も、どんなときも、その人はその人であり続けているってことで、そのプロセスを観させてもらっているときが、クラニオに出会えてよかったなぁと思う瞬間でもあります。
久しぶりに晴れ間が見えた今日、散歩しながらそんなことをつらつらと思っていました。
コース明けの数日は特にクラニオ熱がヒートしているので、暑苦しい文章になりがち(笑)